大学受験合格 2020年11月

 2日配信が遅れましたこと、私的な内容の話であることをご容赦ください。

 1日(月)、次の仕事の準備に追われているさ中に孫(18歳男子)がやってきて事務用のパソコンをいじっていました。いつもなら注意するのですが見て見ぬふり。しばらくすると「噓だ!」と叫び、間をおいて「やったー!」と絶叫。何事かと声を掛けると孫が声を震わせ詰まらせながら言いました。「じぃじ、受かった!合格したよ!!」と。受験した大学の合格発表を見ていたのでした。本人は、落ちたと思い、学校に行きたくないので休んでいたのです。まさかの合格だったのです。それでも信じられそうもなく、受験票を私に渡して「学部」「受験ナンバー」が間違っていないか「確認して」と言いました。結果、間違いなし!!二人で抱き合った瞬間でした。看護学部で学び将来は看護師を目指すといいます。がんばれ!!
 
 


投げ出さないで生きる 2020年10月

 今から8年前、K・Iさんにお聞きした話を思い出しています。(K・Iさんは当時、還暦60歳)事情はよく分かりませんが、頭を開いて大手術をしたそうです。手術後1か月で職場復帰しました。とても責任感が強く頑張り屋さんなのでしょう。でも、職場にはもう居場所がありません。管理職を外されました。家に帰って悔しさを奥さんに愚痴りました。同じ愚痴は聞く方も耐えられなかったのでしょう。やがてK・Iさんは自宅にも居場所を失くしてしまいました。そんなとき、何気なくスイミングスクールに入りました。山国で育った彼は泳ぎができません。15mを泳げるようになるまで相当な時間がかかったそうです。それでも諦めずに1mずつの遠泳に努力しました。やがて気がつくとK・Iさんは2時間半休むことなく泳げるようになっていたそうです。以来、「投げ出さないで生きる」ことのメッセージを多くの人に伝えてきました。K・Iさんが、今でもお元気で講演活動を続けられていることを祈っています。
 


どういたしまして 2020年9月
 その日は特に疲れていた。電車に乗り込み空席の有無を無意識に探してしまう。お譲ちゃん連れの親子の前に立つと、その子が席を詰めてくれた。辛うじて座れるスペースが空いた。「ありがとうね」、と言って私は席に座った。すると、「どういたしまして」という返事が返ってきた。年のころは幼稚園の年長生くらいだ。私は笑顔で軽く会釈をした。車内の空気が和やかさに包まれた。親の躾けの良さが窺える一瞬だった。
 


折々のことば 2020年8月

 「色々な人がいるってことに自分も含まれているんだってことに気づけることが大事だよね」障害者支援NPOのスタッフの言葉です。
 浜松の知的障害者支援のNPO、クリエイティブサポートレッツの職員の一人は、小学生たちの体験訪問では何よりこのことを伝えたいと言う。自分も同じく生きづらさを抱えた一人。もしその「色々な人たち」に自分を含めないでいると、人はつい上から目線になってしまう。いわき市の地域活動家・小松理虔(りけん)の「ただ、そこにいる人たち」から。(哲学者鷲田清一、朝日新聞2020・8・3掲載、折々のことばから)
 


認知症の妻に寄り添う 2020年7月

 神奈川県伊勢原市にお住いの吉川義博さん(77)は、この10年間、アルツハイマー型認知症と診断された妻たづ子さん(73)に寄り添い介護の日々を送っている。二人は連れ添って50年になる。起床は午前3時。5時には妻も目覚めている。妻と自分の血圧測定、オムツ交換などを段取り良くこなし、6時前には朝食介護を終える。そして妻の着替え。顔に保湿クリームを塗って髪をとかしてあげる。そして、2011年から続く日課が始まる。デジタルカメラで着替え後の妻を撮るのだ。日課で撮るのはもう1枚。晩御飯のメニューだ。最初は県外で暮らす長女(49)への報告のためだったという。撮影データは、県内に住む長男(44)が、数か月に一度のペースで文庫サイズのミニアルバムに製本してくれる。アルバムは25冊まで増えた。
 お風呂の介助は夕食前に済ませている。食後は洗面台で歯磨き介助。着替えを済ませ、オムツの準備。午後7時にはベッドに横になってもらい、照明を落とす。ベッドの隣に布団をしき、午後8時には吉川さんも就寝する。
 75歳以上の5人に1人が要介護者になるという。互いにより添え合えるか、私たち夫婦にとって大きな課題だ。(7月2日朝日新聞朝刊「介護とわたしたち」より)
 



大丈夫ですか!? 2020年5月

 電車内での光景がやけに殺風景になったような気がする。寝ているか、スマホに夢中になっているか、のどちらかが圧倒的だ。座っている一列全員がスマホに向っている光景は実に奇妙でゾッとする。

 車内アナウンスが終着を告げたその時、何の弾みか、立っていた中年の男性が手に持っていたカバンを床に落としてしまった。瞬間、カバンの中身が散乱してしまった。おそらくカバンを開いて、読んでいた本でもしまおうとしたのであろう。男性は大慌てで散らばった書類などをカバンに詰め込んでいる。その様子がいかにもバツの悪そうな恰好だ。周りの人も(私も含めて)「野暮な人・・・」そんな視線で見ている。その時である。4、5歳の坊やが叫んだ。「大丈夫ですか!?」と本当に心配げに大きな声で。男性が苦笑いしながら「ありがとう」と言った。車内の空気が笑みに変わった。
 


25周年の回想 2020年4月

 1995年(平成7年)3月、私は研修講師として独り立ち(独立)した。既にバブルは崩壊。景気が悪化する中で、この年1月に阪神淡路大震災そして3月にサリン事件が起きた。傍からすれば独立する時期ではない。しかし、苦労は覚悟していた。先が見えない不安の中で前に進むしか術はなかった。苦しかったが、多くの方々に支えられて苦難を脱した。気が付けば、手帳が真っ黒になるほど予定で埋まっていた。全国を講演・講座で飛び回った。15周年の春3月は、一週間掛けて関西~九州方面にお礼の旅をした。
 25周年を記念に、2020年を引退の年と考えていた。既に、その時を迎えている。そして今、世界が新型コロナウイルスの流行と闘っている。25年前の大震災やサリン事件のことを思い出す。数年前から引退を念頭に置いて人生の舵をボランティアにシフトして来た。だから現在、仕事は全盛期の2割程度だ。引退予定日が過ぎたが、(引退を)5年先に伸ばすことにした。未練がましいが、私は根っからの仕事人間のようだ。 
 


日常五心 2020年3月
 日常五心』という言葉を目にした。そこには ●「有難う」という感謝の心 ●「すみません」と言う反省の心 ●「おかげ様」と言う謙虚な心 ●「私がします」と言う謙虚な心 ●「はい」と言う素直な心 と書いてある。どれも当たり前の言葉だが、私たちが忘れかけている言葉かもしれない。
 
 


愛妻の日を知ってから12年 2020年2月
 
 「愛妻の日」があると聞いて驚いた。昨日がその日。1月の1を「愛」と読ませ、31日を「妻」と読んで「愛妻の日」。なるほど、と感心した。

 早めの夕食は寿司屋で。今月も真面目に働いたご褒美と理由がもう一つあった。そこの店主がお亡くなりになって一周忌が過ぎたのであいさつを兼ねて訪ねたのだ。(還暦前?の若い旅立ちだった)

 夜の8時頃その店を出た。家まではゆっくり歩いても5~6分。「こうして一緒に寿司屋に来られるのはあと何年くらいかしら?」と妻。「俺が元気な限り10年は大丈夫じゃないの」と私。「そうかしら、私が先に死ぬだろうからあと5年くらいよ・・・」「先に死ぬわけないだろう。お前は長生きするよ」「そんなことない、絶対逆よ」と譲らない妻。「5年もわからない・・・3年くらいかな?」と会話が続く。昨年末、数少ない従姉が亡くなったせいもあるだろうが、こんな会話がごく普通になっている。(少々、暗い話でご容赦を)

 上記は「愛妻の日」があることを初めて知った日(2008年=平成20年、2月1日)に書いた記事である。あれから12年が経ったことになる。おかげ様で歳は老いたが夫婦健在である。本当にありがたいことだ。訃報に接する機会が滅法多くなった。それだけに一緒にいられるだけで幸せなのだと思う。
 
 


ひっくり返す 2020年1月
 
 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします

 大逆転は、起こりうる。わたしは、その言葉を信じない。どうせ奇跡なんて起こらない。それでも人々は無責任に言うだろう。小さな者でも大きな相手に立ち向かえ。誰でも違う発想や工夫を駆使して闘え。今こそ自分を貫くときだ。しかし、そんな考えは馬鹿げている。勝ち目のない勝負はあきらめるのが賢明だ。わたしは、ただ、為す術もなく押し込まれる。土俵際、もはや絶対絶命。(この文章もやけに頷ける。でも、文章を下から上へ、一行ずつ読んでみると、さらに頷ける)―朝日新聞元旦、西武・そごう全面広告より―
 
 


公言責任 2019年12月
 
 言葉がとても軽くなっていることを危惧している。「政治家は言葉が命」。その言葉の重みすら分かっていない政治家がいかに多いことか。政治家だけではない。官僚も評論家も先生も・・・日本人全体がそんな風潮だ。
 素人でも「おかしい?」と思うことに平気で嘘の答弁をする官僚と政治家。彼らは『公言責任』をどのように考えているのだろうか。「今度も知らぬ存ぜぬ」とシラを切るつもりなのだろうか。

 私は有名ではないが、研修講師である。講師の発言もまた公言である。「話したことには責任を持つ」「言ったことには責任をとる」。そのような覚悟でいつも教壇に立っている。私は研修屋ではない。研修家だ。そのプライドと責任感を失くしたら、それは詐欺だ。公言の重みは自治体職員の皆さんも同じである。

 おかげ様で、今年も12話を「宝石箱」に納めることができました。来年もどうぞご覧ください。よい年末・年始でありますようにお祈りをいたします。
 
 


心が温まる話 2019年11月
 
 楽しみにしていたKさんの沖縄での家族旅行のときの話である。ベルボーイさんが部屋に案内してくれた。部屋の鍵でドアを開けた瞬間、ゴキブリがその入り口付近で運動会。思わず家族で「きゃっ!」と叫ぶとベルボーイさんは目を点にして「失礼しました!」と言って開けたドアを力いっぱい閉めた。Kさん家族を近くのソファーに案内すると「少々お待ちください」、と言って急ぎ足で立ち去った。戻ったベルさんは「申し訳ありませんが、お部屋をかえさせてください」と言い別の階に案内してくれた。別の部屋を開けると、そこには、これまで見たこともない超豪華なスイートルームがあった。
 
 

伊勢湾台風 2019年10月
 
 1959年9月26日夕に紀伊半島に上陸した伊勢湾台風から60年。全国で5千人を超す死者・行方不明者を出し、台風では明治以降で最悪の被害となった。「大きな濁流にのまれ、父さん、母さん、3人の妹は気がついたらいなくなっていたの」孤児になった加古美恵子さん(70)が、数人の小中学生に語りかけた。8月上旬、名古屋市東区の文化施設であった被災者の話を聞く催し。小中学生の表情が真剣なものに変わった。加古さんは、中学、高校時代は自ら体験を語ることはなかった。
 結婚し、50歳を過ぎて子育てを終えたころ、それまでの人生に感謝の思いが芽生えた。被災の経験を伝えることが周囲への恩返しになると思った。十数年前、白水小からのきっかけで語り部を始めた。
 
 


ボランティア 2019年9月
 
 私たち夫婦にもう両親はいない。自分たちが老いてきたせいか、もっとああしておけば、こうしておけばと悔やまれることが多い。若い頃は、自分たちの生活で手いっぱい。経済的にも苦しかったから仕方がない・・・・。でも、それは言い訳。結局は気づかう心が足りなかったせいと思う。

 いま、傾聴ボランティアの一員として、月に3回、特別養護老人ホームを訪ねている。入居者の皆さんとお喋りをして時を過ごす。大半が認知症を病んでいる。だから、入居者同士での会話はほとんど無い。職員の皆さんは、仕事が忙しくお喋りの相手まで手が廻らない。私たちがその役目をサポートさせていただいている。会話が弾むと笑い声が廊下に響く。そして、笑顔がこぼれる。そんな様子に亡き両親を思い浮かべることがある。やがて、自分も施設にお世話になることがあるであろう。健康ないま、少しでも人様のお役に立てたら、と思う。
 


学ぶ姿勢から学ぶ 2019年8月
 
 研修を担当していると、実にさまざまな参加者と出会う。疲労困憊、自信喪失に陥る時もあるが、多くのエネルギーや感動をいただいて帰ることの方が圧倒的に多い。だからこの仕事がやめられない。
 いつだったか、講義の中で雑談的に“貧乏ゆすり”の話をしたことがある。貧乏ゆすりをする人をよく見かけるが、ある時に、ふと「なぜ男性だけ何だ!?」と気がついた。そんな疑問を何気なく話しただけなのだ。お昼の休憩が終わる少し前に、一人の男性がにこやかな表情で語りかけてきた。「先生、“貧乏ゆすり”の件、分かりましたよ!」と。ネットで検索した資料を私に見せながらその訳を説明してくれた。「なるほど!」理由に感心するとともに、そのことを調べた彼の姿勢にもっと感心した。

 


私のこだわり 2019年7月
 
 プレゼンテーションのトレーニングで『私のこだわり』というタイトルで話をしていただくことがある。「靴下を履くときは必ず左足から」「ペットボトルのお茶を飲むなら伊藤園のお~いお茶だけ」「休日が仏滅の日は外出しない」など、このタイトルは、さまざまな『こだわり』が紹介されて会場も笑いに包まれる。

 そのときのKさんの話がとても印象に残った。「私のこだわりは、だらしのないことはしないことです。・・・」もの静かな口調でKさんは話し出した。「だらしがないとそれだけで住民から文句を言われます。そんなことで自分自身が不愉快になったり、無駄な時間(クレーム対応での)を費やすことは仕事の大きな損失になります。」Kさんはきっぱりと言い切った。身だしなみのだらしなさ、だらしない言葉づかい、時間や納期にルーズなどの例をあげて彼の話は終わった。私も同感である。あたり前のことだが、「さすが課長補佐!!」と心の中でエールを贈った。このような方が管理監督者でなければ役所に未来はない。
 


6万円の美談 2019年6月
 
 那覇空港で何か悩んでいるような青年に埼玉県の医師、猪野屋さんが声をかけた。聞くと、「航空券代6万円の入った財布をなくし与那国島の叔父の葬儀に行けず途方に暮れている」、という。こまっていたのは那覇市の高校2年生崎元さん(17)だった。猪野屋さんは、高い金額だったが、飛行機の時間が迫っていたので、見ず知らずの学生に急いで6万円を渡した。
 学校の名前を聞いていたので、翌日に電話したところ、「そんな生徒はいない」と言われた(工業高校を工業専門学校と間違っていたため)猪野屋さん。「やはり騙された」と思った。ところが2週間後に同僚から、沖縄の新聞の記事のことを知らされた。記事には「お礼がしたい」という崎元さんの写真が大きく載っていた。それを見て、
猪野屋さんは涙が止まらなかった。(崎元さんは葬儀にも間に合い、財布も良い人に拾われ手元に戻った。5月21日、二人は1か月ぶりに再会を果たした)


令和、幕あけ 2019年5月
 令和の時代が幕をあけた。新元号に変わる瞬間を車内で迎える京王電鉄の臨時列車が午後11時45分に新宿を出発して京王八王子駅へ。長野県軽井沢町のホテルでは、元号が平成から令和に変わる1日午前0時をまたいで新潟県三条市の守屋さんと小林さんの結婚式が開かれた。一方、平成最後の夜をディスコで踊り明かそうと、大坂・キタに昨秋復活した「ジュリアナ東京」では、午後7時すぎから改元に向けたカウントダウンイベントが開かれた。この他にも、全国各地でさまざまな形の令和を祝う催しが行われた。
 新しい時代が、輝けるものであることを祈りたい。


新元号決まる 2019年4月
 政府は1日午前、新元号を「令和(れいわ)」と決定した。5月1日午前0時に施行される新元号は、645年の「大化」から数えて248番目になる。
 新元号の典拠について、菅官房長官は、「令和」は万葉集の梅の花の歌32首の序文にある「初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かお)らす」から引用したものだ、と述べた。令和には「明日への希望と共に日本人一人ひとりが大きな花を咲かせる」という願いが込められているという。


心が温まる話 2019年3月

 Tさんは家族旅行先のディズニーランドでアトラクションや乗り物を満喫していた。ところが、園内で借りたベビーカーが見当たらない。子どもを降ろして遊んでいたほんのわずかの時間に無くなってしまったのだ。そのことを係員に告げると、すぐに別のベビーカーを用意してくれた。そして、係員はTさんに尋ねた。「ベビーカーに何かお荷物などお入れではありませんでしたか?」と。「食べかけのポップコーン一個だけですから結構です・・・」と応えると、「しばらくお待ちください」と言ってその場を離れた。Tさんは係員を目で追った。近くの売店からポップコーンを手にして戻ると係員は、「失礼しました。よろしければ、これをどうぞ」とTさんに差し出した。
 


誰でも居酒屋 2019年2月

 「誰でも居酒屋」は店名ではなく飲み会の名前だ。東京・池袋などで定期的に開かれている。常連さんは50代、60代の若年認知症(65歳未満で発症する認知症で、全国に4万人近くいると言われているの当事者である。昨年2月に始まって、ほぼ月1回ペース。いろいろな人が顔をだして、結構繁盛している。
 本人以外にも、母の在宅介護を10年以上続ける人や認知症の妻と暮らす男性。さらに医療・介護関係者や法律家、大学生などの参加もあり良いコミュニケーションの場となっている。「笑おう語ろう」をモットーの「誰でも居酒屋」の一層の繁盛を祈りたい。

 


手放した指輪 2018年11月

 Sさんは、いま61歳。40年以上大切にしていた金の指輪を手放した。その指輪は、彼女が20歳の時、交際していた彼から成人のお祝いとしてプレゼントされたものだった。大好きな彼だったが、恋に対してあまりにも幼く、自分から壊してしまった辛い恋だった、と言う。そのせいか、処分する気にはなれず、いつか再会して謝りたいという、願掛けのお守りのようになっていた。しかし、再会もなく、いくつかの恋もあり結婚したが、秘めた思いは誰にも悟られることなく、消えることもなかった。
 持ち込んだ宝石店では、若い店員さんが「40年もですか?すごいです」と、二人のイニシャルが刻んである指輪をみながら言った。いきさつを話したことを後悔したが、「いい思い出、やっと完結した私の初恋物語」と、Sさんは自分に言い聞かせた。(朝日新聞10月31日朝刊、投稿欄「ひととき」より抜粋引用)
 
 
 


ノーベル賞に本庶氏 2018年10月

 1日、ノーベル医学生理学賞に京都大学の本庶佑(ほんじょたすく)特別教授(76)が選ばれた。(米、ジェームズ・アリソン教授との共同受賞)2人は、免疫をがんの治療に生かす手がかり見つけ、新しいタイプの治療薬を開発。がん治療に革命をもたらした。      
 がん治療は従来、外科手術、放射線、抗がん剤が中心だったが、「オプジーボ」などの免疫チェックポイント阻害剤と呼ばれる薬を開発し、「免疫でがんを治す」という第4の道を開いた。本庶氏は、ノーベル賞や、オプジーボのロイヤルティーなどを元手に若手研究者の支援をする基金を京大に設立する意向を明らかにした。
 
 


2歳児無事に保護 2018年9月

 山口県周防大島町で3日間行方不明だった藤本理稀(よしき)ちゃん(2)が、8月15日に無事発見されました。発見した尾畠(おばた)春夫さんは、78歳。大分県からボランティアで捜索に入りました。2004年の新潟中越地震以来、全国の被災地でボランティアを経験。2011年の東日本大地震では、宮城県南三陸町で計約500日間の活動をしました。今年度も精力的に活動を行っています。必ず軽ワゴン車に食料や水、寝袋などの生活用具を積み込んで出動し、助ける相手側に負担をかけないのが信条。活動費は自分の年金から捻出しています。尾畠さんは、「体力が勝負」、といまも毎朝8㌔走り、鍛錬を欠かしません。凄い方です。(脱帽です)
  


バイキング誕生60年 2018年8月

 8月1日を日本記念日協会は「バイキングの日」に認定している。バイキングの発祥とされるのは帝国ホテル(東京都千代田区)だ。1958年、帝国ホテルが新館を開業するにあたり、そのときの社長が「みんなに注目されるようなレストランをつくろう」と考え、日本で初めて、定額で「好きなものを好きなだけ食べられる」レストランをつくったのである。食卓にいろいろな料理を並べ、各自で取り分ける北欧の伝統料理を参考にしたそうだ。レストランのオープンは8月1日。だからバイキングが誕生してきょうでちょうど60年になる。当時話題だった海賊映画から名前を取って「インペリアル(帝国)バイキング」とした。開業時の値段は昼1200円、夜1500円。ホテルの宿泊料金とほぼ変わらなかったそうだがレストランは大繁盛だった。 


 


追悼・桂歌丸さん 2018年7月
 落語家の桂歌丸(本名・椎名巌=しいな・いわお)さんが2日、慢性閉塞性肺疾患のため死去した。享年81。落語芸術協会会長で、日本テレビ系「笑点」の5代目司会者を長く務めた。数々の病を患いながらも生涯現役を貫く。鼻に酸素チューブを付けながら高座を務める姿に観客からは万雷の拍手が贈られた。「楽をしようと思ったら苦しまなきゃ。死んで目をつぶる時に楽になりてえから頑張っている」こんな含蓄深い言葉を残して旅立たれた。ご冥福をお祈りいたします。 
 
1日1話 2018年6月
 久しぶりによい本と出会った。ある新聞に載っていた6歳の男の子の書いた「ちりがみ」と題する詩を紹介していた。「ちりがみかして ぼく もってるよ 正平くんは おべんじょへ はしっていった ぼくも スッとした」。この詩の命は、最後の1行にある。(これがなかったら、詩にはならない)ウンコをしたのは正平くんである。それなのに、彼が終わったとき、「ぼくも」スッとした、という。ここには、いのちの共感がある。と著者は、共感の大切さを説いている。いま私は、櫻木健古氏の「生きるヒント 1日1話」を電車の中で読んでいる。
 


変わった総選挙 2018年5月
 
 株式会社オンデーズは、東京都品川区に本社を置くメガネ・サングラスなどの販売を行う全国チェーン店の会社である。国内の従業員は約1000人。この会社が前代未聞の制度を6年前に導入した。それは、「自分の上司は自分で選ぶ」というものだ。同社の管理職階は、エリアマネージャー、スーパーバイザー、管理職店長、店長の4つ。店長以外は公募制で選ばれる。特に凄いのはエリアマネージャー解散総選挙だ。国会議員並みの選挙活動が行われ1年毎に新入社員から社長(田中 修治氏)まで全員が投票して選ぶ。再任される者もいれば落選する者もいる。この制度を導入してから、50%から5%に離職率が激減したという。売り上げも急増しているとのことだ。
 


千葉話し方友の会50周年記念 2018年4月
 
 3月10日(土)ホテルポートピア千葉(千葉市)で千葉話し方友の会の50周年記念祝賀会が盛大に開かれた。この会は、“すばらしい人間関係をつくる”をテーマに言論科学研究所が主催した「話し方教室」で学んだ有志が学びを継続したいとの思いから結成したものである。昭和43年のことである。翌44年に私はこの会に入会した。いま思えば運命の出会いである。入会を機会に「話し方教室」の初級から中級、上級、特別コースと学びを進めた。そして、インストラクターの資格を取得し、時計メーカーのSEIKOに勤務の傍ら「話し方教室」講師の任を務めた。
 昭和の幕が下りた63年にSEIKOを退職。平成元年から研修講師を務め現在に至る。転職のきっかけになった友の会を多くの皆さんが育ててくださった。感無量である。50周年バンザイ!!
 
W350計画 2018年3月
 住友林業が創業350年を迎える2041年、都心の真ん中に、地上350m・70階建ての超高層木造ビルディングをつくる計画を立てている。それは、地球環境を保全して持続可能な未来へ向かうために、木をより良く活用しなければという使命のもとに始める、大きな物語だ。人と木、様々な生物が共生できる「環境木化都市」をめざすW350計画。その雄姿を見ることは叶わないが、大いなる挑戦に期待が膨らむ。
 
 


約1億6900万円のメモ 2018年2月

 昨年3月。ドイツ・ハンブルクの自宅で引っ越し作業をしていたときのことである。日本人の父とドイツ人の母の間に生まれた男性(35)は、居間の食器棚の引き出しの中から、黄色く変色した封筒を見つけた。中の古い紙片にはドイツ語で≪静かで質素な生活は、絶え間ない不安にかられながら成功を追い求めるより、多くの喜びをもたらす≫、と書かれていた。男性はすぐに祖母が大事にしていたアインシュタインのメモだと気が付いた。メモを書いたのは、物理学者、アイン・シュタインが1922年、滞在していた東京の帝国ホテルで、心境を便箋に綴り、チップ代わりに日本人ベルボーイに渡したものだった。ベルボーイの妹こそ、彼のおばあちゃんである。約10年前に祖母が暮らす横浜の家に行ったとき、金庫の中に大切にしまわれていたのを思い出した。祖母の死後は、ドイツに移住した父に受け継がれ、その父も6年前に他界した。
 自分が持っていて劣化してしまうよりは・・・・。そう考えいくつかの競売会社に尋ねてみたが興味を示さなかった。ところが、10月、エルサレムの会社が開く競売に出品したところ、何と手数料込み156万ドル(約1億6900万円)で落札されたのだ。メモは先月、落札者が住むフランスに送られた。投資会社に勤める男性は、人生は何も変わらない。そう自分に言い聞かせている、と言う。(1月28日朝日新聞社会面より抜粋編集)
 
 


寂聴さん朝日賞受賞 2018年1月

 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 朝日賞は、1929年(昭和4年)に朝日新聞社の創刊50周年記念事業として創設される。今年度(2017年度)その賞の一人に作家・僧侶の瀬戸内寂聴(95)さんが選ばれた。作家活動約70年、書いた本は400冊以上に及ぶという。近年は圧迫骨折やがん、心臓のカテーテル手術を繰り返しているが、書く情熱は尽きることがない。「死ぬまで書き続けますよ。書かない寂聴なんて、なんの値打ちもない」「95歳まで生きてきて、もう書けないと思ったことは一度もない」と意気軒高である。著述を続けながら反戦運動にも声をあげている。2015年の安保法制では、車いすで国会前に行き、抗議の声を上げた。授賞式は、今月31日。おめでとうございます。(朝日新聞、1月1日3面記事より引用)
 
通信教育の添削から 2017年11月

 拙著「わかりやすい説明の技術コース」の通信教育がスタートしたのが2010年の6月である。通信教育の大手「JTEX」を主に「日本経営協会」「楽天市場」などが販売元となっている。おかげさまで好評をいただいている。一般的に、通信教育の場合、経年とともに受講者が減少するのが一般的であるが、未だ衰える気配がない。毎週、50~60通の添削が届く。3か月コースで金額は税込17,280円だ。決して安い受講料ではない。年齢層も20代~60代と幅広い。毎回、記述式(200字程度)の課題がある。私は赤ペンを握りながら、彼らの学習の様子を想像する。楽な学習ではないはずだが、皆さん、とても一所懸命である。行間から様々な声が聞こえてくる。著者として頭が下がる。週末は添削に追われるが、努力に報いたい思いで、私も一所懸命である。
 
 

癌と向き合う 2017年8月

 誠に申し訳ありませんが9月1日の配信を休ませていただきました。
ご了承ください。

 俳優の黒沢利雄さんは73歳。48歳の時に発症した大腸がんの手術を皮切りに、膀胱・食道・胃がんの手術を計8回も受けている。がんの恐怖、入院、手術、開腹の痛みなど辛いこともあったけれど、命が助かって、また元気に過ごせることの何と楽しいことか。あらゆる困難は、楽しいことへの序章なんだ、と悟ったそうだ。
 もうお葬式も済ませている。昨年、比叡山の阿弥陀堂で「生前逆修永代供養」というのを行ったそうだ。人に迷惑をかけるのが嫌だから・・・・。死んでも葬式や偲ぶ会なんてやったら化けて出てやりますよ。と快活に笑っていた。若い頃の夢は全て手に入れてしまったから、今はもう欲がない。あえて言うなら、今ある仕事を大切にしたい。と謙虚な姿勢だ。
 
 

窓際のトットちゃん 2017年7月
 
 小学校1年で退学になった、おてんばなトットちゃんを受け入れた小学校「トモエ学園」(終戦間際の空襲で焼失)が舞台。個性を伸ばすユニークな教育を実践する小林宗作校長や、そこに学ぶ友達との交流を描くのは、ご存じ俳優・黒柳徹子さん(83)の自叙伝物語「窓ぎわのトットちゃん」である。日本での累計発行部数は、800万部を超え大ヒットとなった。その自叙伝が中国で1千万部を突破したのを記念するイベントが6月21日に北京で開かれた。「トットちゃん」は世界35か国以上で読まれている。印税は社会福祉法人「トット基金」活動に使われ、東京都品川区にあるトット文化館を拠点にろう者の劇団で俳優を養成したり、障害者の就労支援をしたりしている。
 

花の形見 2017年6月
 
 遺灰を遺族から受け取り、土にまいて花を育てる。そんな人が東京・蔵前に居る。自宅マンションの屋上を「畑」にしている。依頼主が希望する花を球根や種から育て、押し花にして、アクセサリーやフォトフレームなどの形見を造っている。白鳥哲也さんは、63歳で旅立った父の死をきっかけに「人の死に寄り添いたい」と、色や模様にこだわったオリジナルの棺をつくる仕事を始めた。だが、棺は肉体と共に燃えて無くなってしまう。その無常感が彼に一つの閃きを与えてくれたという。優しい棺だけでなく永遠に残せるものを創りたい。その想いから「遺灰で育てた花からつくる形見」が生まれた。美しい花として生命がつながり、永遠に、かつ身近に残せる形見をつくることで、家族やペットを亡くした方の気持ちが少しでも和らいでくれるならば、これ以上のやりがいはない、と白鳥さんは語る。

 

赤ちゃんポスト10年 2017年5月
 
熊本市の慈恵病院に開設された親が育てられない子どもを匿名で預かる「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト)が10日で10年になる。昨年3月末までに125人が預けられた。K子が妊娠したのは、地元の九州を離れ、中部地方の看護の専門学校に通う10代の時。交際していない男性と1回だけ性交した。生理が来ない。検査薬で調べると陽性だった。中絶も考えたがずるずると日が過ぎた。ある日、急にお腹が痛くなった。学生寮の部屋のトイレでひとりうめき続け男の子を生んだ。「この子をどうしよう」。悩んでいる時、テレビなどで話題になっていた「赤ちゃんポスト」を思い出した。そして、そこにわが子を託した。男の子は今、幼稚園児。母親の地元の児童養護施設で生活している。母親は働きながら、月1、2回ほど会いに行く。小学校に上がるまでには引き取りたい、と語る。(登場したK子については、朝日新聞の紹介記事を引用)
 「ゆりかご」については、開設当初から「安易な遺棄が増える」「子が親を知る権利を奪う」などの批判もあり、いまだ賛否両論がある。
 
 

アンミカの4つの魔法 2017年4月
 
 アンミカ(安美佳 AHN MIKA)さんが、亡き母から教えられた『アンミカの4つの魔法』(本当の美人になるための、相手に好印象を与えるための)を紹介しよう。
①相手の目を見て話す ②相手の話をきちんと聞く(聞き上手になる) ③姿勢をよくする(オープンハート:胸を相手に向ける) ④口角を上げる  以上の4つである。実践して美人になろう!
【プロフィール】
韓国に生まれて大阪で育つ。家族は両親と兄弟の7人家族。両親が早くして他界。超貧しい生活を送るが、兄弟で助け合いながら生き抜く。幼いころからの夢だったファッションモデルとしてデビュー。才能が認められ1993年にはパリコレに初参加。現在、モデル業以外でも、ジュエリーデザイナー、ファッションプロデューサー、化粧品プロデューサー、執筆・講演、シンガーなど様々な方面で大活躍。テレビ・ラジオ出演多数。45歳。
 
 
 

入庁の動機 2017年3月
 本コラムを立ち上げたのは2003年である。月に1回の配信だが、毎回生みの苦しみだ。何度やめ様と思ったか計り知れない。過去の配信記事を懐かしく読み返すことがある。そして思う。今、あの人はどうしているだろうかと。

【2008年11月1日配信記事から】
 A市役所の3年次研修を担当させていただいた。職員は総勢25名。一人の欠員もなく研修がスタートした。研修名はプレゼンを中心とした『実践・話し方講座』。従って、参加者は大勢の前で幾度となく話をすることになる。トレーニングは結構厳しい。

 研修の中で、東消防署の消防隊員である斉藤 穣さんが入庁(隊員となった)した動機を語ってくれた。彼には小学校からの親友がいた。当時、バレーボール部で活躍した仲間でもある。中学は別だったが、高校でまた一緒になった。共に学べることが嬉しかった。しかし、不運なことに親友を悲劇が襲ったのである。高校2年の時だった。彼の家が火に包まれた。懸命の消化が続いたが焼け跡から親友の遺体が発見された。斎藤さんは現場を目の当たりにした。隊員の行動の一部始終が目に焼きついた。親友を失った悲しみの中で、一つの決心が漠然と芽生えていた。「将来は消防隊員になろう!」と。

 彼は迷うことなく採用試験を受けた。そして、大学卒業と同時に入庁して隊員となった。いま、25歳。天国の親友から見守られて一生懸命活躍している。(合掌)
 
 
 

日本サッカーの発展に貢献 2017年2月
 JR上野駅前の和菓子店「岡埜栄泉(おかのえいせん)」は創業明治6年の老舗である。老舗の5代目でありながら、日本のサッカー界を牽引した岡野俊一郎さんが85歳で亡くなった。東大在学中の55年に日本代表入り。64年東京、68年メキシコのコーチや日本代表監督を歴任した。日本サッカー協会会長(98年~2005年)として世界を飛び回る一方、家業に戻れば大福やどら焼きの秘伝を守る二束のわらじをはいた。(2月5日、朝日新聞 天声人語から一部引用)
 
 

「さくら」さん、銅像に 2017年1月

 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 1969年から26年、全48作を数えた映画「男はつらいよ」シリーズは、今でも再放送され、人気を博している。舞台となったのは、東京・葛飾柴又。その駅前広場に「フーテンの寅像」が建っている。今春3月、そのそばに妹「さくら」の銅像が建つことが決まった。スクリーンの中で永遠の兄妹、その妹役を演じたのはご存じ倍賞千恵子さんである。75歳とは思えない若さと美貌で今も大活躍だ。柴又にまた名所が誕生する。
 

大丈夫ですか!? 2016年12月

 電車内での光景がやけに殺風景になったような気がする。寝ているか、スマホに夢中になっているか、のどちらかが圧倒的だ。座っている一列全員がスマホに向っている光景は実に奇妙でゾッとする。

 車内アナウンスが終着を告げたその時、何の弾みか、立っていた中年の男性が手に持っていたカバンを床に落としてしまった。瞬間、カバンの中身が散乱してしまった。おそらくカバンを開いて、読んでいた本でもしまおうとしたのであろう。男性は大慌てで散らばった書類などをカバンに詰め込んでいる。その様子がいかにもバツの悪そうな恰好だ。周りの人も(私も含めて)「野暮な人・・・」そんな視線で見ている。その時である。4、5歳の坊やが叫んだ。「大丈夫ですか!?」と、本当に心配げに大きな声で。男性が苦笑いしながら「ありがとう」と言った。車内の空気が笑みに変わった。

 

88歳のアマチュアカメラマン 2016年11月

 西本喜美子さんは、熊本市内のエレベータ付きの一戸建て住宅に、感情認識ロボット「pepper」と暮らしている。衝撃の自撮り写真(セルフ・ポートレート)がネットで大反響を呼び一躍話題の人となった。現在88歳。アマチュアカメラマンとして活躍中である。72歳で初めてカメラを手にとり、74歳でマックに触れたことがきっかけとなり西本さんの人生が変わった。「笑われてもかまいはしません。ただ面白く楽しくなる写真が撮りたいんです」。と人生を100倍楽しんでいる人だ。
 作品集「ひとりじゃなかよ 西本喜美子」が飛鳥新社から発売されている。衝撃の自撮り写真は、ネット検索でも楽しめる。一度ご覧あれ。
 
 

働くこと、輝くこと 2016年10月

 以前、定年を迎えた方々の座談会を聞きました。「定年になったら1年か2年、のんびりと今までの垢を落として命の洗濯。そして、これからの人生へのエネルギーをしっかり充電しよう」、と考えるそうです。でも現実はかなり違うとのことでした。「定年後の、のんびり感、それは充電ではなく放電。放電のあとには停電が待っている」、としみじみ語るその人の言葉に唸ってしまいました。またある人も言いました。「働ける場があることは素晴らしい。でも、それだけでは人は輝けない。人に喜んでもらうために働いてこそ輝ける」、と。なるほどと感心しました。働くことの意義が見えてくるような気がします。
 
 

101歳のジャーナリスト 2016年9月

 「戦争絶滅」を訴え続けた101歳のジャーナリストむのたけじ(本名・武野武治)さんが8月21日、老衰のため、さいたま市の次男宅で長い生涯を閉じた。終戦の日に「負け戦を勝ち戦のように報じて国民を裏切ったけじめをつける」と朝日新聞を退社。ふるさとの秋田県に戻った。横手市で週刊新聞「たいまつ」を創刊。1978年に780号で休刊してからは、著作や講演活動を通して、「平和への信念」を貫き通した。
 100歳になった昨年は戦後70年で「歴史引き継ぎのタイムリミット」といい、講演で各地を飛び回った。今年5月3日に東京都江東区で行われた「憲法集会」でのスピーチが公の場での最後の訴えとなった。(朝日新聞デジタルから)合掌。
 


義足で夢の舞台へ 2016年8月

 義足で舞台に立ち続ける歌舞伎役者がいる。日本舞踊家でもある菊月喜千寿(きくづききせんじゅ、55)さんがその人だ。壊疽のため右足をひざから失い4年が経つ。6月19日、東京・浅草公会堂にて悲願の「勧進帳」弁慶を舞った。弁慶が片足ずつ踏む「飛び六方」で、力強く花道を駆け抜ける晴れやかな幕切れに、客席から大きな拍手がわいた。
 「正座は滑らかに」「足先を曲げ、(舞台に)とんと突きたい」歌舞伎に必要な動きを義肢装具士の大野さんに菊月さんは夢中で話した。二人三脚で改良を重ね、178㌢、100㌔の菊月さんの体を支える義足が昨年の夏に完成した。
 「失ったものを悲しむより、残されたものを喜ぶ方が、人生はずっと幸せだ」「ゴールじゃない。スタートラインだ」。今の体を愛し、次の夢舞台へと菊月さんは歩き出す。


指導の本質 2016年7月

 私は、Y先生(故人)から多くの教えをいただいた。氏からいただいた哲学は、私の中で脈々と生き続けている。この仕事に携わるようになって、幾度となくY先生のアシスタントとして講座を担当させていただいた。その折のY先生の私へのアドバイスが、いまでも鮮明に耳に残っている。
 研修が終えたあとは、反省会と称して一杯やるのが常であった。その席での話である。(話し方研修では、スピーチ(プレゼンテーション)のトレーニングを繰り返して行なう。そして、私たちが、一人ひとりにコメントをする。)
 『コメントをする時に、声の小さい人に「もっと声を大きく出してください」うつむいて話す人に「聞き手と目線を合わせて話してください」早口の人に「もっと間をとってください」こんなコメントは、コメントじゃないよ。そんなのは、イジメと言うんだ!』Y先生のひと言がズシンと心に響き、いっぺんに酔いが冷めた。

 核心を突いたひと言に、指導する本質を見た気がした。考えてみれば、そのとおりなのである。声がでない、アイコンタクトができない、間がとれない、その現象をコメントするだけでは適切なアドバイスにはならないのだ。そのためにどうすればよいのか、どんなトレーニングがあるのか、それを示してこそはじめて指導したことになるのだ。以来、短時間で効果の上がるトレーニングプログラムの研究・開発を真剣に考えた。いまでは、他社の講師もそのプログラムを取り入れて指導をしているようだが、生みの親は私と自負している。おかげさまで、プレゼンテーションの研修に大きな成果を収めている
 

私のこだわり 2016年6月

 T市役所の課長補佐級の研修を担当させていただいた。内容は2日間コースのディベート研修である。初日はプレゼンテーションの実習を徹底してトレーニングする。その折に、全員に『私のこだわり』というテーマで話をしていただいた。「靴下を履くときは必ず左足から」「ペットボトルのお茶を飲むなら伊藤園のお~いお茶だけ」「休日が仏滅の日は外出しない」など、このテーマは、さまざまな『こだわり』が紹介されて会場も笑いに包まれる。

 そのときのKさんの話がとても印象に残った。「私のこだわりは、だらしのないことはしないことです。・・・」もの静かな口調でKさんは話し出した。「だらしがないとそれだけで住民から文句を言われます。そんなことで自分自身が不愉快になったり、無駄な時間(クレーム対応での)を費やすことは仕事にとって大きな損失になります。」Kさんはきっぱりと言い切った。身だしなみのだらしなさ、だらしない言葉づかい、時間や納期にルーズなどの例をあげて彼の話は終わった。私も同感である。あたり前のことだが、「さすが課長補佐!!」と心の中でエールを贈った。このような方が管理監督者でなければ役所に未来はない。
 

こどもの会話 2016年5月

 鯉のぼりが悠々と泳いでいる。5日は『こどもの日』。こどもが巣立った大人には、ちょっぴり淋しい『こどもの日』かもしれない。(子育て真っ最中のあなたもそんな時期はすぐに来ますよ)

 住まいの沿線に『北習志野』という駅がある。いつだったか電車の中で、隣に座った坊やが「ママ、なぜこの駅は汚らしいの(きたならしの)?」と聞いていた。以下は、以前読んだ“かあさん・あのね”からの引用です。●近所を散歩中 ノゾミ「おとこ おしえますだって」母「えっ、何?」(よく見ると「おこと おしえます」の看板でした。4歳・山形市)●夕飯の支度で、お母さんが大根の皮をむいているのを隣で見ていて、ユイ「ママ、だいこんごろしするの?」(お母さんは一瞬手が止まりましたが、だいこんおろしのことだとわかり、大笑いしました。3歳・仙台市)●車で祖父母の家に行く途中、会社にいるお父さんを迎えにいくため、いつもと違った道を走っていると、コタロウ「どこいくの?」母「お父さんを拾ってからいくの」コタロウ「えっ なに?」母「お父さんを拾ってから、おばあちゃんちにいくの!」コタロウ「・・・・おとうさん みちにねころんでいるの」母「ハハハ(大爆笑)」(5歳・豊田市)
 
 こどもの目線って楽しくなる。健やかな成長を願ってやまない。よい大人になってほしい。
 

報われる 2016年4月

 まずは、平成26年4月1日に「下積み」と題して配信した下記の内容をご覧いただきたい。

 ~夜9時、10時、11時台のニュース番組を可能な限り(比較しながら)見ることにしている。9時54分スタートの番組はご存知「報道ステーション」。スタッフの富川悠太アナウンサー(38歳)は、1999年にテレビ朝日に入社した。報道ステーションでは、毎日発生するニュースの現場を飛び回り、現地から生の情報を伝えている。移動の距離は想像を絶するものだ。「身体をこわすのでは」、と心配になる。懸命に取り組む真摯な姿に感銘を受ける。宇賀なつみ(28歳)は、2009年4月、テレビ朝日に入社と同時に報道ステーションの「お天気コーナー」を担当した。初めて放送したときの宇賀に私は驚愕した。度胸と渇舌の良さが抜群だ。この夜、私は宇賀が大物アナウンサーになることを確信した。「お天気コーナー」は11時前のライブ放送。これも大変な仕事だ。いまは2011年入社の青山愛(26歳)にコーナーを譲り、スタジオでスポーツアナウンサーとして活躍している。(敬称略)
 言い方が失礼かもしれないが、私は人の成長にはこの下積みがとても重要だと思う。苦労は目標を目指すエネルギーとなる。そして、それが人を大成させる。~

 平成7年4月1日から「報道ステーション」を担当した古館キャスターが昨日31日の放送を以って番組を降りた。番組を裏方として支えた富川悠太アナが後任を務めることになった。“苦労が報われた”、と自分の事のように嬉しい。宇賀なつみも、朝の番組「羽鳥モーニングショー」にキャスターとしてレギュラー出演して頑張っている。お二人のますますの活躍を期待したい。

 

世界にはばたく子どもの育て方 2016年3月

 ピアニスト辻井伸行さんの母で、ラジオパーソナリティの辻井いつ子さんは息子の伸行さんが生まれた時のことを「光を感じることもできない全盲だと聞かされた時は落ち込みました。でも私が下を向いていたら彼の人生に幸せはないんじゃないかと思いました。『できないことを嘆くんじゃなくて、この子がやりたいことを一つでも見つけよう』と思いました」と語っている。伸行さんは2歳3カ月で、教えてもいないのにおもちゃのピアノを引き出したという。中学の時に出会った指揮者の佐渡裕さんが音楽の世界を開いてくれた。「人間って本当に無限大の可能性があることを息子に教えてもらいました。子どもが夢を語ったときには、『絶対できるから応援するね』と言ってほしいなと思います」、そう朝日小学生新聞・佐藤善一編集長のインタビューに応えている。

 

看取り 2016年2月

 死が迫り苦しむ人の手を握り、じっと話を聴く。21年間で看取った患者は、約2800人。めぐみ在宅クリニック院長小澤竹俊さん(53)は、その経験を「看取りのコミュニケーション」として体系化し、全国の医療・介護職らに伝えようと、昨年4月、一般社団法人「エンドオブライフ・ケア協会」を立ち上げた。
 死を前に絶望した患者が、自分たちのケアで「生きていてよかった」と思えるようになった時は本当にうれしい。でも看取りの現場は、そんな「美しい話」ばかりではない。「どんな時でも、患者さんから逃げずに一緒にいる。これが、看取るということなんです」と語る。(朝日新聞1月30日、フロントランナーから抜粋)
 
 

80歳で現役ホームヘルパー 2016年1月

 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 大阪府豊中市にお住いの千葉幸子さんは、73歳でホームヘルパー2級、76歳で介護福祉士の資格を取得しました。さらに、介護支援専門員実務講座受験試験に合格し、昨年6月末に研修を終えてホームヘルパーとして活躍しています。何と80歳の現役ヘルパーですから驚きです。現在は87歳から98歳の4名の高齢者を担当しているそうです。
 さらに、さらに、昨年の6月「80歳の記念に」とケアマネジャー試験を目指すことを決意、10月に受験して合格しました。脱帽です!!
 
 

おかげ様で 2015年12月

 最近、昔がやけに懐かしくなる。歳のせいだろうか。書き溜めた「話の宝石箱」を遡って読んでいると、次の文章で目が止った。

 夜の8時ころ店を出た。家まではゆっくり歩いても5~6分。「こうして一緒に寿司屋に来られるのはあと何年くらいかしら?」と妻。「俺が元気な限り10年は大丈夫じゃないの」と私。「そうかしら、私が先に死ぬだろうからあと5年くらいよ・・・」「先に死ぬわけないだろう。お前は長生きするよ」「そんなことない、絶対逆よ」と譲らない妻。「5年もわからない・・・3年くらいかな?」と会話が続く。昨年末、数少ない従姉が亡くなったせいもあるだろうが、こんな会話がごく普通になっている。(少々、暗い話でご容赦を)

 平成20年1月に書いた記事である。その日からもうすぐまる8年。おかげ様で夫婦元気に過ごしている。老いには勝てないが、円満に夫婦を続けている。有りがたいことだ。
 
 

折々のことば 2015年11月

 1瞬に1生をかけることもある。1生が1瞬に思えるときがあるだろう。画家、香月康男(こうづき・やすお)の言葉です。
 展覧会の図録「<私の>地球」に掲載された手書き、横書きの文章で「1」がまるでくさびを打つかのように映る。香月の画業のすべてはシベリア抑留中に目にし、経験した非業と非情への問いかけとしてしかありえなかった。人にはどうしても消せない一点、癒えない一点があって、時とともに語り口は変わっても、ついに同じ一つの<傷>を際限なく反芻するほかないものなのか。(哲学者鷲田清一、朝日新聞2015・10・27掲載、折々のことばから)
 
 

静かに考える 2015年10月

 読んだ本の一節がやけに心から離れない。「何もなかったとき、あなたは本当に不幸でしたか?いまより幸せだったんじゃないですか」、の言葉がそれだ。いま、裕福ではないが人並みな生活をおくっている。
 考えてみれば故郷(山形)を離れたときは身体一つしかなかった。給料から借りた奨学金を十数年返済したくらいだから貧乏な家に生まれたことがよく窺える。結婚して子どもが生まれたときも6畳1間に4人で寝起きをしていた。かなり生活が苦しかったが、決して不幸と感じたことはなかった。私同様に妻の実家も裕福ではなかった。だから、お互いの両親が亡くなっても何も残らなかった。両親に借金が無かったことくらいが唯一の財産だ。
 恵まれているとはどういうことなのか、幸せとは何なのか、人は何のために生きるのか、そんなことを
あらためて静かに考えてみたい。
 

小澤征爾さん「傘寿」 2015年9月
 指揮者小澤征爾さんが1日、80歳の誕生日を迎えた。長野県松本市で開催中のセイジ・オザワ松本フェスティバル(OMF)でお祝いのコンサートがあり、世界ピアニストのマルタ・アルゲリッチさんが弾くベートーベンの合唱幻想曲で、小澤さんが指揮し、健在ぶりをアピール。曲の合間には、キャロライン・ケネディ米駐大使が舞台に立ち、氏の業績をたたえた。ますますのご活躍をお祈りいたします。
 

続:ゴーヤのカーテン 2015年8月
 
 今年もゴーヤのカーテンづくりに挑戦した。苗を植えて2か月。実に順調に育っている。既に2階の屋根まで到達。1階の台所はぶ厚いカーテンに覆われている。実もたわわに生っている。2階の勉強部屋も1階同様カーテンに覆われている。散歩など通りすがりの人が足を止め驚きの様子でカーテンを見上げていく。その様子を私は台所から見ている。何とも言えない快感だ。
 自称『ゴーヤづくり名人』の育て方のポイントは、①地植え(プランターなら底の深いもの)②苗の葉の6、7枚目の上で芯を詰める③肥料をふんだんに与える④水やりを欠かさない(1日2回)⑤ネット(網)に新芽をうまく誘導してあげる 等である。
 夜風にあたりながら「ゴーヤのカーテン」を見上げながら飲む酒は格別である。ストレス解消にもってこいだ。

 

かよちゃん募金 2015年7月
 
 千葉県流山市の金沢佳代ちゃん(1歳9カ月)は、重い心臓病を患っている。米国での心臓移植を目指すために移植に伴う費用の募金活動が続けられてきた。このたび、その募金額が目標の2億4500万に達成。父輝宏さん(38)は、井崎市長にその旨の報告とお礼を述べた。
 佳代ちゃんの渡航は7月20~25日で米・コロンビア大学病院と話し合いが進んでいる。手術の成功をお祈りいたします。

 

5年前の私 2015年6月

 「本日の配信はギブアップ!」、と諦めていた。少々のことでは弱音は吐かないで生きてきた。でも、ここ1か月以上、さまざまな仕事が重なり過ぎている。無理せずに配信を休めば、それで済むこと・・・そう思い仕事に出かけた。考えてみたら今日はまだ1日。配信に間に合う。気を取り直して、羽田行きの便に乗った。5分遅れで富山空港を17:45分に離陸。羽田には5分遅れの18:45分に着陸。ゲートから玄関までは若い人でも10分はかかる。私は14分かかる。ヘリコプターをチャーターして家に向かった。予定通り自宅に19:50分に着いた。(羽田からの直通電車に乗って、最寄り駅からタクシーに乗っても自宅までは1時間40分かかる)私の親友や友人は、私が滅多に家にいることはない。そう思って電話をしてくる。着いて5分後に電話が鳴った。私が出ると「なぜ、この時間に家にいるの!?」、と幽霊にでも会ったような怪訝な声を出している。そこで、前述のような説明をした。神業でも20時前に到着できるわけがない。だから友人は、「本当に忙しいんだ・・・」とつぶやいた。「そんな金があったらとうに引退しているよ!」と私。
 ヘリコプターなどチャーターできるはずがない。それでも、19時50分に玄関で靴を脱いだ。高橋得意の裏技をつかったのだ。

 こんな時代もありました。歳をとると5年前でも10年前以上に感じるから不思議です。やれるうちにやれることをやっておきましょう!!
 

車いすの花嫁 2015年5月

 「妻にウェディングドレスを着てほしい」。東京都足立区の森康史さん(38)は、3月に結婚した同じ図書館で働く妻和代さん(39)のために、ドレスを探した。2人とも車いすでの生活。先天性の障害で身長130㌢の和代さんに合う貸衣装のドレスは見つからなかった。そんな中、ネットで「バリアフリーウェディングドレス」を知った。和代さんは「『なし婚』(結婚式や披露宴をしない結婚)でもいい」と遠慮したが、康史さんは「選択肢があるってことは信号は青。進んでみよう」と背中を押した。
 先月28日、障害者の結婚式を演出するスタッフが衣装合わせに訪れた。2人は今夏、地方に住むお互いの両親を呼び、小さな結婚式を挙げる予定だ。(5月2日、朝日新聞社会面から引用)

 

北島三郎座長公演に終止符 2015年4月

 北島三郎78歳、1936年10月4日北海道知内町生まれ。「函館の女」に始まる『女』シリーズ、「兄弟仁義」などの『任侠』シリーズなど、数多くのヒット曲がある。日本を代表する演歌歌手はいうまでもなく、俳優、作詞家、作曲家としてもマルチな活動を積極的に行っている。一般的にはサブちゃんという愛称で親しまれている。
 そのサブちゃんが、今年1月29日に福岡県博多座で千秋楽を迎え、長期の座長公演に終止符を打った。昭和43年の初座長公演から46年、通算公演回数は4578回に及んだ「プロとして、去り(退き)時を誤ってはいけない」、それが北島の哲学である。芸能活動は継続されるが、紅白歌合戦の出場もその道を後輩に譲った。偉い男である。
 

 

赤平画伯と再会 2015年3月

 本日(3月1日)5年ぶりにある会合で赤平画伯と再会。同じテーブルで飲食を共にした。画伯の横顔を紹介しょう。

 「赤平浩一(あかひら・こういち)」さんは、東京駅丸の内口改札口を出たところの露店で「店」を構え、50年近く靴を磨き続けていた。靴磨きを始めたのは父母で、昭和20年代から始発で丸の内まで出かけ、最終電車まで働いた。赤平さんも小学生の頃から、授業が終わると両親の仕事を手伝った。いまも年に数回現場で靴を磨いている。

 幼い頃から画家を志し、それ以外の人生は考えなかったという。靴磨きで学費を稼ぎ美術学校に通い24歳で初めて個展を開く。40代半ばまでは日本とパリ、アメリカをいったりきたりしながら、精力的に個展を開いた。そして、合間を縫って、丸の内で靴磨きをした。「靴はその人の生きざまを反映するので、常に清潔にね」、とさりげなく、赤平さんはお客に声をかけた。お客様は政財界人が多かったと聞く。前某大臣もそのお一人だ。
マスコミは、「靴磨きが絵描きになった、と面白可笑しく記事を書くが、そうではない。絵描きが靴を磨いていただけなのだ」。そう語ってくれた言葉が印象的だった。

 
 
 

ユーモアお母さん 2015年2月
 

 どんなタイトルにするか随分迷った。「素敵なお母さん」「こみあげる笑い」「ユーモアとは」「爆笑」etc。悩んだ挙句、『ユーモアお母さん』に決めた。決めてから念のためユーモアの定義を調べた。定義がまた結構むずかしい。気に入った意味言葉がようやく見つかった。気がきいて「上品」なこっけい味。「センス」のあるおしゃれ。諧謔(かいぎゃく:面白みのある戯言)。おかしみ。なかなかいいフレーズである。

 今月は再放送です。研修の中で『私の失敗談』と題した参加者Uさんの1分間スピーチをお聞きください。寒い毎日ですがきっと心が温かくなりますよ。

 Uさんは今流に言えば「いけ面」の好青年。20代後半か?7年前、彼は恋に落ちた。就寝の前は必ず『おやすみ・・・』のメールを欠かさなかった、と言う。その夜も彼は心を込めたメールを送信して寝につこうとした。その時、寝室のドアが開いた。びっくりして起き上がるとそこにお母さんがいた。そして、言った。『おやすみ・・・私も愛しているは』と。立ち去るお母さんの足音を聞きながら、彼は唖然・呆然とした、と言う。ユーモアお母さんの話に会場から大きな拍手と笑いが起こった。
 

 
 

31536000秒 2015年1月
  あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 「31536000秒。1年を秒に表すと、これほどの数字になる。その1秒1秒を、価値あるものとするか。それとも、ただいたずらに費やすのみか。すべては、あなたの意志と行動が決める。」(元旦朝日新聞、時計のSEIKOコマーシャルコピーから)
 

 

回想 2014年12月

 孫が通う小学校の持久走(ミニマラソンのような競技)を見学した。「学年で1位になったら買って欲しいものがある」、と言っていた下の孫(3年生)は、残念ながら1位は逃し2位に。悔し涙を流していた。お兄ちゃんは6年生。弟に負けまいと頑張ったが結果は6位だった。いずれにしてもよく頑張ったと思う。
 孫の力走を見ながら自分の小学校の頃を回想した。私も走ることには自信があった。それでも、どうしても1位にはなれなかった。短距離走もマラソンも。どんなに頑張ってもK君には勝てなかったのだ。私も悔し涙を流したような気がする。「もう一度あのグランドに立ってみたい」。そんな想いが募る一日だった。

 ネタ不足に悩まされながらの1年でしたが、今年最後の配信となりました。どうぞ、よい年末・年始をお過ごしください。

 
 

再挑戦 2014年11月

 年に1度しかない産業カウンセラー協会のキャリア・コンサルタント試験を今年も受験した。昨年は学科試験で不合格。悔しい思いをした。学科試験1:5肢択一によるマークシート方式で40問(90分) 学科試験2:記述式( )の中に適当な言葉を入れる(45分) 学科試験3:記述論述小論文(40分)の三つをクリアしなければならない。60歳を過ぎてからの暗記は堪える。「今年も落ちたら、もう二度と受験はしない」、との思いで試験に臨んだ。10月初旬、結果通知が届いた。封を切る手が緊張する結果は合格。思わず万歳を三唱した。これで「産業カウンセラー」と「キャリア・コンサルタント」の二冠を制したことになる。
 
 

続・三冊のノート 2014年10月

 周期的に鬱に襲われ続けた作家・五木寛之氏は、三冊のノートを書き続け、都度、その苦難を乗り越えたという。最初のノートは『歓びノート』。一日のうちに、なにか一つ、これはうれしかった、ということをみつけて記録する。「うれしかった」と必ず一行の最後をしめくくるのが特徴。「きょうはネクタイが一度できれいに結べて、うれしかった」のように。うれしいことがみつからなくても無理してでも探して記録することが大切だ。60歳過ぎた頃、鬱に悩まされたときにつけたのが『悲しみノート』。最後の行は「かなしかった」でしめくくる。不思議なことに、悲しみを表現することで、かえって気持ちが開放された気がしたという。「よろこぶこと」と「かなしむこと」は、両方とも心の大事な働きなのだと氏は語る。70歳を過ぎた頃、三度目の鬱に襲われる。前述の二つのノートはあまり役に立たなかったそうだ。そこで生まれたのが『あんがとノート』。北陸の方言では「ありがとう」を「あんがと」と言う。このノートを長続きさせるコツも同じで、特別に何もない日には、「一日、無事に過ごせて、ありがたい」と書く。

 経験者の苦しみから生まれた『三冊のノート』。若い人には『歓びノート』、中高年には『悲しみノート』、老年期には『あんがとノート』を氏は勧めている。
 

 

あなどらずに 2014年9月

 厳しい猛暑が続いたが、ここ数日はあの暑さが嘘のような毎日である。今年も傘下24自治会を有する連合自治会(とても大きい組織です)主催による納涼盆踊り大会が8月23・24日の両日に開催された。その盆踊りの会場で、私(髙橋)は司会進行の放送係を頼まれてマイクを握った。
 私は話し方のプロである。現在、講演・講座を生業としている。数年前までは婚礼司会のプロとしてもホテルでマイクを握っていた。その披露宴数は2000組に及ぶ。話すことには慣れている。
 しかし、いつも「過信してはいけない」、と自分に言い聞かせている。時と場所と内容が変われば話し方も変わる。あなどりは禁物と思っている。妻に同行してもらい「カラオケボックス」に行った。盆踊りの曲を選曲しながら、2時間たっぷりとリハーサル(トークの練習)をした。おかげで無事に役目を果たすことができた。これからも謙虚に真摯に生きていきたいと思う。

 

続・鳩の巣篭もり 2014年8月
 昨年より1か月以上早く、(庭の木に)今年も鳩の巣篭もりが始まった。昨年はふ化を確認できないまま鳩が巣から居なくなってしまった。今年は何としてもふ化を見届けたい。それにしても驚きだ。四六時中懸命に卵を温めている。食事はいつとるのだろうか、と心配になる。只々ひたすら温め続けている。そのけな気さを愛おしく思う。人育てにも懸命さが必要なのだ、と痛感する。無事に巣立つのを見送りたい。
 

「ありがとう」の言葉 2014年7月
 自宅から大通りに出るT字路でのことである。右手から小学生男児(二人)が来るのが見えたので停車して待つことにした。車の前を横切る際に、二人の男児から「ありがとうございました!」と大きな声でお礼の言葉が返ってきた。
 歩道を歩いていたら後ろから自転車が近づいてくる気配を感じた。左に寄ると自転車が通り抜けた。その際にも「ありがとうございます」と声をかけられた。見ればまだ若き青年である。どちらも爽やかな気分になれた。「ありがとうと1日10回言う事にしよう」、と思った。
 

91歳のパイロット 2014年6月
 高橋 淳さんは91歳。日本最高齢のパイロットである。戦時中は海軍の操縦士で、戦後間もない頃からパイロットを目指す人たちの教官を務め、現在も大空を駆けめぐっている。視力や聴力などの航空身体検査をパスするのは若い人でも厳しい、というが毎年パスしてコックピットで操縦桿をさばいている。元気の秘訣は「7時間以上の睡眠、と腹八分で食べること」そして「しゃれっ気を忘れずに人生を楽しむこと」だそうだ。月1回はパンチパーマをかけ、週1回はネールサロンで爪を磨いている。そして、カラオケを楽しむ人生だ。ますますの活躍を祈ってやまない。 
 

とげとげ言葉 2014年5月
 神奈川県藤沢市にお住いの北村幸枝(75歳)さんは、姪の長男(4歳)を1日預かることになった。「さあ、お昼ごはんにしましょ。その前に手を洗いなさい」と促すと、「おばちゃま。『何々しなさい』って言ってはいけないんだ」と返ってきた。「じゃあ、なんて言えばいい?」と聞くと、「手を洗いましょうね、とか」だそう。「何々しなさい」という表現は「とげとげ言葉」だから使わないように、と保育園で教わったという。いよいよ迎えた食事時。「あなたはお肉が好きだけど、お野菜も食べないとね」。これも不用意だったらしい。「あなた、とか、あんたとかも言わないで。ちゃんとお名前があるでしょ。名前を呼び合ってお話をしなければいけないの」と、すかさず返された。
 幼児のころから言葉遣いで他人を気遣うことを教わるとは、将来は明るい。4歳児から教えられることが多い一日だった。と北村さんは言葉を結ばれた。
 

下積み 2014年4月

 夜9時、10時、11時台のニュース番組を可能な限り(比較しながら)見ることにしている。9時54分スタートの番組はご存知「報道ステーション」。スタッフの富川悠太アナウンサー(38歳)は、1999年にテレビ朝日に入社した。報道ステーションでは、毎日発生するニュースの現場を飛び回り、現地から生の情報を伝えている。移動の距離は想像を絶するものだ。「身体をこわすのでは」、と心配になる。懸命に取り組む真摯な姿に感銘を受ける。宇賀なつみ(28歳)は、2009年4月、テレビ朝日に入社と同時に報道ステーションの「お天気コーナー」を担当した。初めて放送したときの宇賀に私は驚愕した。度胸と渇舌の良さが抜群だ。この夜、私は宇賀が大物アナウンサーになることを確信した。「お天気コーナー」は11時前のライブ放送。これも大変な仕事だ。いまは2011年入社の青山愛(26歳)にコーナーを譲り、スタジオでスポーツアナウンサーとして活躍している。(敬称略)

言い方が失礼かもしれないが、私は人の成長にはこの下積みがとても重要だと思う。苦労は目標を目指すエネルギーとなる。そして、それが人を大成させる。民放に比べて、NHKのアナウンサーは実に怠慢だ。訓練がいい加減なのだろう。とちるアナウンサーばかりが目立つ。現地からの報道も分業化されているから苦労を知らない。駄目アナが多いのも当然だろう。


見えない苦労 2014年3月

 ソチオリンピック、フィギアスケート男子で羽生結弦選手(19)が金メダルに輝きました。おめでとうございます。演技を終えた直後の彼はいつも息苦しそうに深い呼吸をします。「全力投球した結果のシーン」、といつも見ていました。ところがそうではなかったようです。彼には小さいころから『喘息』の持病があったのです。今も飲み薬は朝晩2錠ずつ。吸入薬も手放せません。喘息の影響で肺を大きく開いて息を吸い込むことができないから、4分半、全力疾走する運動量のフリーなどでは特に後半必ず息苦しくなるのだそうです。普段の練習量は長くて2時間。同年代の選手の三分の二もこなせません。昨年から、肺周辺の筋肉が柔らかくなれば姿勢もよくなり呼吸もしやすくなる、と硬い上半身をほぐすため「置き針=背中、腰、足などに針を埋め込む」という針治療を始めました。見えないところで人一倍の苦労と努力をしているのですね。
 

捨てる作業の中で 2014年2月

 たまった資料を整理した。大半の資料はすべて私自身がキーボードを叩きながら作ったものだ。ことさら愛着がある。それでもファイルの数を半分に減らした。最初は、必要性の有無があるかないか点検しながら処分した。中には、なつかしい書類も数多い。感傷に浸ってしまう。これでは作業がいっこうに捗らない。2日目からは眠っていた書類はドンドン捨てることにした。延べ5日間時間を割いた。処分した資料は200キロにおよんだ。限(きり)がないので、今回の整理は一段落つけることにした。

 捨てる作業の中で、ずいぶんと多くの出会いがあったことにあらためて驚く。そこには、さまざまな人生模様があった。『人は多くの人に支えられて生きている』。そのことを実感し感謝した。私自身は(研修講師として)多くの皆さんを生かし切れたのだろうか、と反省しながら。(23年3月1日配信記事を再投稿しました)

  

小さな仕事の花 2014年1月

  明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 「小口注文の配達には応じられません」、店員のそんな声を聞きながらKさんは新入社員当時のことを思いだしていた。印刷会社の営業に配属された彼は、ある日、小口注文ばかりの取引先を切ろうと上司に提案した。ところが「どんな小さな仕事でも断ってはいけない」と逆にたしなめられてしまった。納得できなかったが、半年後、その会社から大口契約の話がきた。先方からは「割に合わない仕事を誠意を持ってやってくれたのでせめてもの恩返し」と言われた。上司に「このことを見通しておられたのですか」と聞くと、「足元の小さな花に水をあげれば、必ずお花畑になるものだよ」と笑った。その夜、「お祝いだ」と料亭に誘ってくれ、「君の手柄だぞ」と何度も肩をたたいてくれた。思わず涙がでた。あれから30年。お元気ならば80代半ばだろう。もし会えば「介護の仕事はきついわりに賃金が安い」と文句を垂れる元部下に、どんな言葉をかけるだろうか。(読売新聞「男のひといき」欄への投稿より、54歳男性、介護福祉士)
 

    
「くじけないで」、映画化 2013年12月

 今年1月に101歳で亡くなられた詩人、柴田トヨさんの半生を描いた「くじけないで」が映画化された。92歳で詩作を始めた柴田トヨさんは、産経新聞「朝の詩」への投稿が評判となり、98歳で処女詩集「くじけないで」を出版。ベストセラーとなり160万部を売り上げた。映画は、「くじけないで」と第二詩集「百歳」を原作に、詩を書き始めたエピソードや詩集の背景となった家族のドラマなど、トヨさんの人生を描いていく。
 映画は八千草薫さん(82)がトヨさん役、武田鉄矢さん(64)が長男役を務め、深川栄洋監督がメガホンをとった。

     

回想 2013年11月

       以降の記事は2009年9月1日に書いたものである。

 この研修業界で独立して15年が経つ。覚悟はしていたが、病気もそうだが、それ以上に『人の死』に直面したときは本当に辛かった。「父がいよいよ危ない」、と報を受けたのは確か月曜日だったと記憶している。金曜日までは既に指名の研修が入っている。帰るわけにはいかない。体が空いているのは土曜と日曜日だけだ。変な話だが、親父には遅くても金曜日には天国に行ってもらわないと、日曜日の告別式は無理だ。私は郷里(山形県)を離れて千葉県に住んでいるが喪主である。「喪主のいない告別式など聞いたことがない」と笑うに笑えない話だが、二人の姉は必死でタイミングよく息を引き取ることを祈った。2001年1月21日(土曜)の明け方、父は逝った。日曜日の火葬証明がとれるギリギリのタイムリミットだったという。バタバタと父の葬儀を行い、まだ途中だったが、その足で翌月曜日の仕事先に向った。

 (記事を書いてから4年しか経っていない。しかし、10年の年月が流れたような錯覚に陥るきょうこの頃である。
 
 

専業主婦に・・・ 2013年10月

 もっと少ないと思っていたが以外と驚きの数字だ。「結婚したら専業主婦になりたい」、と思っている独身女性は3人に1人。独身の女性に「専業主婦になりたいと思うか」を尋ねたところ、「どちらかといえばそう思う」を含めて34.2%が「そう思う」と答えた。一方、結婚相手に専業主婦になって欲しいと思っている独身男性は5人に1人(19.3%)にとどまった。こちらはもっと多いと思っていた数字だ。
 専業主婦がいいと思った独身男女に理由を聞くと、「女性には家事や子育てなど、仕事をすることよりもやることがある」が最多の61.4%。「夫がしっかり働けるようにサポートするのが妻の役目」が29.3%で続いた。(厚生労働省の調査、15~39歳の男女の意識調査を今年3月にインターネットで実施。3千人余りから回答を得た)
 
 

鳩の巣篭もり 2013年9月

 8月22日、庭のモミジの木に鳩の巣を発見。翌日から巣篭もりが始まった。23日は久しぶりに雨が降った。雨に打たれても微動だにしない。巣の上に笠をかけてやろうと脚立に上る。鳩が逃げ、飛び立った。巣の中をみると卵が2個ある。大きさはウズラの卵程度。その小ささに驚く。鳩は用心深い鳥だそうだ。もう帰って来ないかもしれない、と気にかかる。数分後に巣を見上げると鳩が戻っていた。ふ化するまで何日かかるのだろうか。10日ほど経つが、きょうも懸命に卵を温めている。食事はいつとるのだろうか、と心配になるほど、ひたすら温め続けている。そのけな気さを愛おしく思う。人の子育ても、鳩の子育ても同じ。強く心を打たれる。無事に巣立つのを見送りたい。
 
 

ゴーヤのカーテン 2013年8月

 今年もゴーヤのカーテンづくりに挑戦した。苗を植えて1か月。実に順調に育っている。既に2階のベランダまで到達。1階の台所はぶ厚いカーテンに覆われている。実もたわわに生っている。2階の勉強部屋も間もなくカーテンに覆われる。屋根に届くのは時間の問題だ。散歩など通りすがりの人が足を止め驚きの様子でカーテンを見上げていく。その様子を私は台所から見ている。何とも言えない快感だ。
 自称『ゴーヤづくり名人』の育て方のポイントは、①地植え(プランターなら底の深いもの)②苗の葉の6、7枚目の上で芯を詰める③肥料をふんだんに与える④水やりを欠かさない(1日2回)⑤ネット(網)に新芽をうまく誘導してあげる 等である。
 夜風にあたりながら「ゴーヤのカーテン」を見上げながら飲む酒は格別である。ストレス解消にもってこいだ。今年は市が募集の「ゴーヤのカーテン写真展」に応募しようかと思っている。
 
 

夢が実る 2013年7月

 東京・有楽町のガード下にある新聞配達員向けの食堂で、朝食をつくって11年。山口恵以子さん(55)は、野菜たっぷりのポークジンジャーが得意な「食堂のおばちゃん」と親しまれています。高校生の頃の夢は漫画家。賞に応募しましたが、編集者から「絵が下手」といわれて断念しました。早大文学部を卒業後、就職した宝飾の会社が3年で倒産。派遣で仕事を続けながら、脚本家を目指しましたが、任されるのはドラマの脚本の基となるプロットばかり。「お金も名前もでませんでした」。
 求人広告で見つけた食堂に採用されたことが転機になりました。気がつくとテレビ局のプロデューサーは自分と同世代。「40代半ばでは脚本家の芽はない」と悟り、年齢がない作家の道へ。毎日午前3時半に起床。食堂の仕事後に2~3時間、週2回の休日に8時間、ケイタイ小説などを書き続けました。このたび、松本清張賞に輝き、受賞作「月下上海」(文藝春秋)が22日、単行本として刊行されました。「やっと報われました」と山口さんは感慨もひとしおでした。
 
 

観光に来てください 2013年6月

 仙台の先で仕事をした。梅雨入りはまだだった。新(深)緑と流れる風が心地よい。人出は心なしか昨年より少ないようだ。復旧・復興は遅々として進んでいないような気がした。研修参加者の皆さんの中に被災地の職員がいた。スピーチで「ぜひ観光に来てください。それが何よりの支援ですから」、と話されていた。今回はビジネスで出かけたが、タクシーに余分に乗り、美味しいものをたくさん食してきた。
 東日本大震災の復興予算で2千億円がついた雇用対策事業のうち、約1千億円が被災地以外で使われていることがわかった。ずさんな管理の責任を誰もとろうとしない。私たちも復興税を支払うこととなったが、その使われ方が信用できない。変な世の中である。

 

「おかげさまで」 2013年5月

 夏がくると冬がいいという、冬になると夏がいいという、ふとるとやせたいという、やせるとふとりたいという、忙しいと閑(ひま)になりたいという、閑になると忙しい方がいいという、自分に都合のいい人は善い人だとほめ、自分に都合が悪くなると悪い人だと貶(けな)す、借りた傘も雨があがれば邪魔になる、金をもてば古びた女房がじゃまになる、世帯をもてば親さえも邪魔になる、衣食住は昔に比べりゃ天国だが 上を見て不平不満の明け暮れ、隣を見て愚痴ばかり、どうして自分を見つめないのか 静かに考えてみるがいい 一体自分とは何なのか、親のおかげ 先生のおかげ、世間さまのおかげのかたまりが自分ではないか、つまらぬ自我妄執(じがもうしつ)をすてて 得手勝手を慎んだら世の中はきっと明るくなるだろう、おれがおれがを捨てて おかげさまで おかげさまでとくらしたい(詠み人知らず、無断掲載をご容赦ください)
 
 

80歳の挑戦 2013年4月

 記録的な早さとなった開花。そんな満開の桜に見送られ、世界的なプロスキーヤー・冒険家の三浦雄一郎さんが、エベレストを目指して29日、日本を出発した。前回の登頂は、75歳のとき。昨年80歳になられた三浦さんは、世界最高齢による登頂記録の更新を狙う。ふだん、散歩の際に30キロもあるリュックを背負って歩くなど鍛練を怠らない、という。しっかり準備をし、精密検査を受けて健康を確認した上での挑戦だ。前回の倍の時間をかけて、ゆっくり高山に体を慣らし、頂上アタックは5月中旬の予定である。それにしても凄い!快挙を心から祈りたい。
 
 

どういたしまして 2013年3月

 その日は特に疲れていた。電車に乗り込み空席の有無を無意識に探してしまう。お譲ちゃん連れの親子の前に立つと、その子が席を詰めてくれた。辛うじて座れるスペースが空いた。「ありがとうね」、と言って私は席に座った。すると、「どういたしまして」という返事が返ってきた。年のころは幼稚園の年長生くらいだ。私は笑顔で軽く会釈をした。車内の空気が和やかさに包まれた。親の躾けの良さが窺える一瞬だった。
 
 

新名所誕生!? 2013年2月

 地元「鎌ケ谷市」には、日ハムの二軍球場があります。ダルビッシュ選手もこの球場の寮生活からスタートしました。今期話題の大谷選手もこの寮に入りました。さりとて、野球ファン以外の方々にとっては当市の存在感は薄いのではないでしょうか。
 ところが、ここにきて新名所誕生の兆しがあります。鎌ケ谷市役所の屋上が近ごろ、写真愛好家らでにぎわっているのです。夕日をのみ込む富士山、東京スカイツリーの「ツーショット」を狙えるのがその理由です。県内ばかりか東京都内や埼玉県などからも集まってくるようです。6階建て市庁舎の屋上には、カメラと三脚を担いだ100人を超す人々で混雑した日もありました。市が屋上を開放しており、夕日が山頂で輝く「ダイヤモンド富士」が見られます。2月2日は土曜日で閉庁日でしたが、特別に開放したといいます。
 
 

ヨイトマケの唄 2013年1月

 謹んで新年のご挨拶を申し上げます。本年も、よろしくお願いいたします。

 大晦日の夜、やっと一段落してテレビのスイッチを入れた。画面が映らない。まさか故障!?数秒後、美輪明宏さんが歌う『ヨイトマケの唄』が静かに流れた。「父ちゃんの為なら エンヤコラ 母ちゃんの為なら エンヤコラ・・・・」と。昭和40年にヒットしたこの歌は、日雇い人夫のことを歌った差別の歌である、との理由から放送禁止になったそうだ。この歌を差別と感じる愚かしさに腹が立つ。昨今、言葉尻をとらえた批判が大きな顔をして横行している。変な世の中になったものだ。この歌は「きたない子ども」といじめられて泣きながら家に帰る道すがら、母ちゃんの泥まみれ汗まみれになって働く姿をみた少年の心を唄ったものだ。少年は泣いた涙も忘れはて、「勉強するよ」と言いながら学校に帰って行く。美輪さんの唄を聴きながら私は泣いた。亡き母の姿を思い出しながら・・・

 ご本人が作詞・作曲されたこの唄は、著作権法から作詞の紹介ができません。ネット検索『ヨイトマケの唄』で作詞がご覧になれます。今でしたら、昨夜の映像もご覧になれます。
 
 

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